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杏さん

同じ名前の女の子

杏  

 私は名前を杏と言います。意外と本名です。親からは、まず「アン」の音からこの名前が思いついたと聞きました。五十音で言うと最初の音と最後の音。「ン」で終わる音だから、二回韻を踏んで「アンチャン」と呼んだ方がやさしかったのでしょう、小さい頃の私は「アン」と呼び捨てで呼ばれる機会がとても少なく、仲良しの友達同士が呼び捨てで呼びあう中で一人だけ「チャン」付けで呼ばれているような気がしていました。海外で仕事をするようになって、「アン」は世界中で通用する名前だと分かって愛着が湧いたけれど、小さい頃は「なんだか、ちょっと変わった名前だなぁ」と思うことがしばしばありました。

 おまけに小さい頃は今よりずっと強い癖毛で、髪の色も茶色く、背格好もひょろひょろとしていました。同級生の悪ガキ男子から「ガイジン!」とからかわれるのが嫌でした。そんな不満を愚痴ったら、親は「赤毛のアンだねぇ」とお気楽に微笑むのでした。それから、初めて会った人から名前を聞かれて答えると「あら、赤毛のアンちゃんねえ」と言われることもしょっちゅう。そんなこんなで「赤毛のアン」は小さい頃から何となく気になる存在でした。小学校の高学年になると髪を短くしたので、今度は「アンチャン」と呼ばれる私を見た人が、私を男の子だと勘違いするようになりました。高校生になっても髪の色が茶色かったので、学校に「天然赤毛届」という書類を提出させられることになりました。名実ともに「赤毛のアン」となったお下げ髪の私は、書類の入った封筒を手にして、またぼんやり「赤毛のアン」に思いをはせるのでした。

 ちなみに「ア」は母音であるため、「カンちゃん」とか「サンちゃん」と言った子音が追加されたあだ名が聞こえてきても、自分が呼ばれたのかと勘違いして反応してしまうこともよくあります。とは言え、今、改めて客観的に考えれば、単純明快で呼びやすい名前なのでしょう。

 アニメ「赤毛のアン」が放送されていたのは私が生まれる前で、子供の時に見る事は叶わなかったけれど、先日、大人になって見る機会を得ました。仕事が終わって帰宅して、ソファに座って、ワインを片手にアニメ「赤毛のアン〜グリーンゲーブルズへの道〜」を見る。なんとも不釣り合いな組み合わせだけれど、そのうちにグラスを握ったまま、画面に見入ってしまいました。アンと共通するところ、共感する部分が多く、あつかましくも「アンと私は似ているなぁ」なんてつぶやいてしまいました。広いおでこも似ているけれど、驚いたのが養母マリラに名前を聞かれたアンが「アンって呼んでも良いけど、後ろにEの付いたアンで呼んでね!」と言うシーン。同じことを私はしていました。パスポートでの正式な表記は「AN」にしかできないけれど、それだけだと少し寂しい。私は今も、普段の生活で名前を英語で表記する時、「ANNE」としています。Nを一つ足して、後ろに「E」が付くだけで、ほんのりと華やかになる気がするのです。「ほら、想像してみて!」と繰り返し養父マシューやマリラに、一見突拍子の無い空想を披露するアンの気持ちもよくわかります(繰り返すけれど、あつかましいのは承知の上で)。

 私の場合、アンのようにメルヘンで可愛い空想と言うより、くだらなかったり馬鹿馬鹿しかったり、ちょっと間抜けな妄想が多いけれど、その突拍子の無さにはアンに負けない自信があります。口を閉じて静かに黙っていることも多いけれど、頭の中は色々な想像がぐるぐると巡っていて、結構忙しいのです。

 違うところと言えば、小さい頃に苦労をした揚句、孤児院に行ったというところでしょう。十一歳のアンは、どんなに辛い過去を送ってきたのか、ポツリポツリと断片的に語られるエピソードだけでもその苦労がうかがえます。表情豊かに飛びまわって、どんな逆境にもめげない彼女の姿に、どれだけ多くの人が元気をもらえたのか想像がつきません。

 子供の頃、「赤毛のアン」に出会っていたらきっと「同じ名前のアンっていう女の子が、こうして頑張っているんだもの!」と、沢山勇気を貰えたことでしょう。でも、今こうして、いかにも不釣り合いなワインを手にして、(一応社会的には)大人の立場でアンと対峙している。結果論かもしれないけれど、大人になってから「赤毛のアン」を見たことで、偶然共通点の多い子供時代を持った友人と出会えたような気がしています。故郷が一緒だと、初対面でも共通項があって話が弾むように、同じ名前というだけで大分近いような気がします。アニメ「赤毛のアン」にはまだまだ続きがあって、成長して、大人になって社会に出ていくところも描いているらしいです。このまま続きを見て、成長を追って、大人のアンにも会いたくなりました。大人になった彼女は、私よりもきっとしっかりと大人びているのでしょう。でも、空想好きでやんちゃな部分は消えていないのではないかと思います。私は同じ名前だというだけで、勝手に彼女を近い存在にとらえているけれど、彼女との間に、年齢や時代や接し方は関係ないのだなぁ、と感じました。いつまでも彼女は、あの森にいるのだろうと自然に思えます。アン・シャーリーもきっとそうありたいと思っているのではないかしら。

 ……そのほうが、十分に想像の余地があるでしょう?
(モデル、女優 あん)