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児島宏子さん

[インタビュー]
善良さ、寛大さ、もの悲しさ
ロシア人の心に触れる映画

児島宏子 (ロシア語通訳・翻訳家)

「チェブラーシカ」はどのような歴史的、文化的な背景をもって生まれてきたのか。映画「チェブラーシカ」の日本語版字幕と吹替版の翻訳を担当し、ウスペンスキーによる原作の翻訳も手がけているロシア語翻訳家の児島宏子さんにお話をうかがった。


─児島さんが最初にチェブラーシカに出会ったのは、いつごろですか?

 一九七三年の秋にモスクワ大学に留学したんですが、あるとき街へ出て、キオスクで、帽子やマフラーをかける木製のハンガーに、ワニとなんだかわからないけれど可愛い動物が描かれているのを見かけて買ったんですね。それがチェブラーシカとゲーナだったんです。いまもそのハンガーは大事に持っています。映画を観たのは、もう少し後になってからですね。

─チェブラーシカもゲーナも、ロシアでひじょうに親しまれているキャラクターなんですか?

 そうですね。ソビエト連邦(以下、ソ連)時代、あらゆる映画館が、昼間はアニメや子供向けの映画を上映していて、子供たちは保育園や学校から連れられて観に行っていました。アニメの専門館もありましたし、そういうところで子供たちはみんな「チェブラーシカ」を観ていたんですね。ソ連が崩壊したあと、市場経済が導入されて経済効率が求められるようになって、映画館もずいぶん減ってしまいましたが、いまはテレビでアニメが放映されているので、やはり子供たちはみんな観ていますね。

─ソ連時代、アニメーション映画の制作に力が入れられていたのでしょうか?

R-2_000170.jpg ソ連という国は、一九一七年のロシア革命によって誕生して、いわゆる社会主義体制になったわけです(一九九一年に連邦は解消)。本当に社会主義が実現されていたのかどうかは、いろいろ疑問点もありますけれども、理想としては、女性や子供、弱い立場の人たちを守ることを掲げていましたから、子供の教育にも力が入れられました。学校の授業料は無料でしたし、優等生には平均賃金くらいの奨学金が出ていました。もちろん、みんなが学校に行けるわけではなく、教育を受けられる人は限られていましたが、未来や未来の人材に投資する、人材を育成するという方針は、ソ連のいい面だったと思います。
 ソユーズムリトフィルムという国立の大きな撮影所があって、そこでたくさんの映画が制作されましたが、子供のための映画であれば、予算も出ましたし、制作しやすかったんですね。ですから、時間も手間もかかるアニメーション映画であっても、作りやすい環境がありました。一方で、ソ連時代、反体制の芸術家たちには自由な活動の場所が少なかったので、「子供のために」というのを建前として、たくさんの映画がつくられたといういきさつもあります。


守ってあげたい存在


─監督のカチャーノフは、ウスペンスキーの原作をどのようにして見つけたんですか?

 カチャーノフさんの映画の編集を担当していたナターシャさんに聞いたんですが、あるとき、カチャーノフさんが本をかかえてきて、「すごく面白い本を見つけたよ」と言って、みんなの前で読んで聞かせてくれたそうです。ロシアでは、昔から詩や小説を朗読する習慣があるんですね。カチャーノフさん自身は、友だちの家に行ったとき、その家の子供に「本を読んで」とせがまれて、読んであげたのが『ワニのゲーナとおともだち』だったそうです。それで「これは面白い、ぜひアニメにしたい」と思ったそうです。だから、カチャーノフさんがこの原作に惚れ込んだんですね。
 ちなみに、映画では「チェブラーシカ」というタイトルになっていますが、もともとの原作のタイトルは『ワニのゲーナとおともだち』です。ゲーナが主人公で、そこにチェブラーシカが登場するというかたちですね。

─児島さんは原作の翻訳も手がけられていますが、原作と映画を比べて、ちがいを感じるとしたら、どんなことでしょう?

 ウスペンスキーさんのもともとのアイデアがいいんですが、カチャーノフさんの解釈もすばらしいですね。なんといっても映画では、チェブラーシカという存在そのものの魅力が強調されています。正体不明の動物であるチェブが、決していばったりしない、その奥ゆかしさ、無邪気さ。子供でも、ちいさな赤ちゃんの、手のかかるときがいちばん可愛いですよね。『星の王子さま』に出てくるバラのように、手をかけて守ってあげないといけない、自分を必要としているものの前では、人はとても心を動かされます。チェブは、そういう存在ですよね。そうした性質は、原作よりも映画のほうが、より強められていると思います。私はチェブが、ひゅっと目を伏せるときの表情や、ちょっと身を引くしぐさが好きなんです(笑)。

─自分が正体不明であることに引け目を感じて「友だちになれないの?」と心配するセリフがありますね。チェブは不安や寂しさを抱えていますが、それゆえに見ている側はチェブに共感し、また、いとおしさを感じますね。

 なんだか守ってあげたい気持ちにさせてくれるんですよね。人って、自分のことばかりにかまけているのではなくて、誰かにたいして気持ちが動くとき、守りたいとか助けたいと思うときに、その人のよさが出ますよね。私たちがチェブに出会うと、可愛いな、抱きしめてあげたいなって、そういう情感がふっとわき起こってくる。
 夏目漱石の『三四郎』に、「Pity’s akin to love」を「可哀想だた、惚れたつて事よ」と訳す場面が出てきますが、かわいそうという思いは、一種の愛情ですよね。優越感ではなく、いい意味で一歩、人間として上にあがるというか、自分の質を高めるというか、そういう気持ちをチェブはくれるんですよね。人間を憂える、やさしさね。

─そして、ゲーナも素敵ですね。

R-1_000066.jpg 重い荷物を運んでいるゲーナを見て、チェブが「ぼくが荷物を持つから、ゲーナはぼくを運んで」と言う場面があるでしょう。そこで「それはいい考えだ」と言ってあげるゲーナの心のゆとり、心意気、やさしさ。そういうふうになりたいなと思いますね。
 と同時に、そんないい子ばかりはやっていられなくて、シャパクリャクみたいに、いたずらをやってみたいとも思う。「私もシャパクリャクみたいに、あのゴミ箱、思いっきりけっとばしたい」とかね(笑)。やりたくてもできないことをやってくれる快さがあるのよね。シャパクリャクも、いいキャラクターです。ロシアには、ああいうユニークというか、わが道をゆくタイプのおばあさんがよくいるんですよ。

─それぞれのキャラクターをつくりあげた、美術のシュワルツマンの功績も大きいですね。

 シュワルツマンさんに聞いたんですが、ゲーナとシャパクリャクについては、イメージをつくるのは、そんなに難しくなかったそうです。でも、チェブのイメージを考えるのが、ほんとうにたいへんだったみたい。というのは、どこにもない、だれにも似ていない、そしてみんなに愛される、みんなが可愛いと思う善良な存在というのを、どうやって作り上げたらいいのか、とても難しかったそうです。
 善良という言葉は、日本語だとちょっとぎこちなく聞こえるかもしれませんが、ロシアではとても重要なんです。この「チェブラーシカ」でも、みんながひたすらめざしたのは、善良さということかもしれませんね。

─『イワンのばか』のように、愚直なまでに善良であることを尊ぶようなところが、ロシア人にはあるんでしょうか。

 そうですね。『イワンのばか』は、軍人と商人のお兄さんたちが欲張って失敗してしまったのにたいして、お父さんと一緒に畑を耕していた農夫のイワンに、最後にはみんなが助けられるというお話ですけれど、いま読んでも、思わず、はっとするほど新鮮ですよね。『イワンのばか』をはじめ、民話をもとにしたトルストイの短編は、すばらしいですね。それは教訓的な意味もあるんでしょうが、結局、イワンのような生き方がいちばん賢いという、人間の知恵なんでしょうね。
 同じキリスト教でも、カソリックは誇り、プライドを大事にしますが、ロシア正教では、寛容、許すことを大事にするんですね。ロシア人は、寛容で、なかなか怒らない。だけど、怒ったら、全心身をかけますから、もう、おっそろしいんですよ(笑)。

─なにか理不尽な目に遭っても、チェブラーシカもゲーナも、怒るのではなく、静かに受け止めますね。

 ある意味では、ロシア人はとても忍耐強いんです。自分の置かれた状況にたいして抵抗しない、ジタバタしない。日本のように小さな国土とくらべると、あれだけ大きな国土ですから、時間と空間と距離の概念がちがうし、とほうもなく大きな自然というものがあって、自分の力でどうにかできるということがあまりなかったわけですよね。だから、無駄に動いてもしょうがないという諦めがある。そういうところは、中国と少し似ていますね。
 ロシア語には、一種の自然性をあらわす「スチヒーヤ」という言葉があるんです。日本語には一言でぴったりくる言葉が見当たらないんですが、台風とか地震とか、あるいは人間の感情とか、自然発生的に出てきてしまう抑えようのないもの、そういうものを「スチヒーヤ」と言うんです。英語の「ネイチャー」ともちがって、もっとどうにもならないものという感じですね。そういうことにたいして、ロシア人は寛大というか、結構、尊重するんですね。
 ところが、そういう性格があるものだから、なんにもやらない、やってもしょうがない、働かない、という人も多いんです。「チェブラーシカ」の第四話にも、堂々と仕事をさぼっている人たちが出てきますけど、少し前までは、商店でも五時閉店と書いてあっても三時には閉める仕度をするとか、そんな調子でした。ですから、いま、市場経済になって、社会の変化についていけない人が多くてたいへんなんですよ。
 まあそういうこともあって、チェブラーシカが働くことにたいしてとても積極的だというのは、「働くことはいいことだよ」ということを、子供たちに教えるための教訓的な意味ももちろん入っていると思います。『イワンのばか』のように勤勉で、実直で、善良なことを美徳とするところがある一方で、とても怠け者が多いことも事実なんです。


人間も動物もみんな友だち


─「チェブラーシカ」には、親子関係が出てこなくて、みんな個人、ひとりぼっちの孤独な存在ですね。

 それはやはり、ソ連の社会状況を反映していると思います。ものすごく孤児が多かったんです。第一次世界大戦、ロシア革命後の内戦、そして第二次世界大戦を経て、たくさんの戦争孤児が出ました。ソ連で最初のトーキー長編映画である「人生案内」(ニコライ・エック監督、一九三一年)は、街に大量にあふれていた浮浪児たちをなんとか更生させようとするお話です。戦後になっても、身寄りもない、家もない、天涯孤独になってしまった子供がとても多かったんです。戦争でお父さんを亡くして、お母さんだけになってしまった子供もたくさんいました。

─カチャーノフ監督のほかの作品「ミトン」(一九六七年)、「レター」(一九七〇年)、「ママ」(一九七一年)を見ると、父親が不在で、母親と子供、ふたりきりの生活の中での不安や孤独が描かれていますね。

 原作のウスペンスキーさん(一九三七年生まれ)も、監督のカチャーノフさん(一九二一~一九九三年)も、そういう時代を見てきた人たちですからね。

─「チェブラーシカ」では、ひとりひとり、孤独な存在である人間や動物たちが寄り集まっています。血縁関係でも婚姻関係でもない、ある種の理想的な共同体が描かれているように思います。ゲーナとチェブを見ても、庇護するものと庇護される者の結びつきですが、上下関係もなく、友情で結ばれている。そういうところにも感動しますね。

 人間社会だとか、肉親だけの家族だとか、そういうものを取り払っていますよね。動物も人間も一対一、個と個という感じでつきあっていて、それぞれ個性があって、たったひとつの存在だということを尊重しあっている。「チェブラーシカ」のテーマは、友愛、友情、大きな意味の愛情ですよね。しかもそれは、人間だけではなくて、動物もみんな友だちなんですね。ウスペンスキーさんは動物が大好きな人で、おうちに行ったことがあるんですが、動物がたくさんいました。犬、カラス、コノハズクまで。

─みんなで力を合せて共同体をつくるというのは、社会主義的な理想も反映しているのでしょうか?

 社会主義建設のときのスローガンとして、「ひとりはみんなのために。みんなはひとりのために」というのがあったんですよね(ただし、これは社会主義が生まれるよりも、もっと前からヨーロッパにあったフレーズのようですが)。そういうメッセージは、「チェブラーシカ」にも感じられますね。みんなで「友だちの家」をつくるというのが、象徴的です。ソ連時代には公共施設に「~の家」という名前をよくつけたんですね。
 ですが、ロシアにはもっと昔から「ミール」という言葉があるんです。それは「農村共同体」という意味の古い言葉です。大地に結びついた共同体のことですが、同音異義で「世界」「平和」があります。トルストイの『戦争と平和』の平和も「ミール」です。みんなが知恵を出し合って、おたがいに助け合うことは、弱い存在の私たちには、どうしても必要ですよね。これは私が勝手に思うことですが、そういう精神が、「チェブラーシカ」にも流れているんじゃないでしょうか。

─「チェブラーシカ」は音楽もすばらしいですね。たとえば第三話「シャパクリャク」で、列車の屋根にゲーナとチェブとシャパクリャクが並んで座り、ゲーナが歌うシーン。「未来はもっと素敵だよ」(「青い列車」)と歌いながら、その悲しいメロディ、背景は暗雲がたちこめているようなグレーで、とてもせつなくなります。

 訳しているときにも、あの曲を聴いていると涙が出てくるんですね。子供の歌なのに、なんて悲しいんだろうと。「チェブラーシカ」の音楽を担当したシャインスキーさんは、いまでもとても人気のある音楽家です。シャインスキーさん本人に確かめたことはないんですが、シャインスキーさんはユダヤ人ですから、これは「クレズマー」、つまりユダヤの音楽の影響も大きいと思います。美術のシュワルツマンさんもユダヤ人ですし、ロシア、とくに映画界や音楽界には、ユダヤ系の人はとても多いんですね。もともとロシアの音楽もセンチメンタルですが、そこにユダヤ音楽がもつ底知れぬ、癒しがたい悲哀がすべり込んでいるのではないでしょうか。
 実際、本当に心に残るものって、なにやらもの悲しいんですよね。自分の生活をふりかえっても、楽しいことや幸せな瞬間は意外に忘れてしまう。むしろ、映画でも文学でも、悲しいもののほうが心を動かされるし、いつまでも心に残るもんですよ。



児島宏子(こじま・ひろこ)

東京生まれ。通訳・翻訳家・エッセイ。訳書に、ユーリー・ノルシュテイン他『きりのなかのはりねずみ』(福音館書店)、同『きつねとうさぎ ロシアの昔話』(福音館書店、日本絵本賞)、チェーホフ『ロスチャイルドのバイオリン』『大学生』『可愛い女』他(未知谷)、ソクーロフ『チェーホフが蘇える』(書肆山田)、ソクーロフ他『ドルチェ─優しく』(岩波書店)、同『ソクーロフとの対話 魂の声、物質の夢』(河出書房新社)、『春のめざめ』(発行/スタジオジブリ、発売/徳間書店)など。ソクーロフ監督作品をはじめ映画の字幕翻訳を多数手がける。