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『ことばたち』ジャック・プレヴェール 著 訳および解説と注解 高畑勲 ジャック・プレヴェールは愛の詩人だった。しかしなによりもまず自由と友愛の詩人であり、徹底した反権力の詩人だった。あらゆる抑圧や戦争や破壊に反対し、常にその犠牲になる子どもや女性、貧しい人々、動物や木々の味方でありつづけた。その愛は女性の自由を最大限に尊重するものであり、その反抗は裸の子どもの心で武装されていた。そしてプレヴェールのユーモアは、平凡な日常に自由の風を吹き込んで、わたしたちを生きやすくしてくれるのだ。

 ジャック・プレヴェールは、1900年2月4日、パリ近郊のヌイイ・シュル・セーヌに生まれ、激動の20世紀の歩みとともに生き、そのときどきを作品に刻印しつつ、1977年4月11日、77歳でブルターニュ半島の村、オモンヴィル・ラ・プティトに没した。

 プレヴェールは15歳から働き口を探して町に出、20歳で兵役、25歳でシュルレアリストの仲間となり、1928年頃からは弟のピエールとともに映画に関心を強め、様々な試みをはじめる。30年、バタイユ、デスノス、レリス、リブモン=デッセーニュ、クノーらとともに、ブルトンの権威主義に絶縁状を突きつけて運動としてのシュルレアリスムから離れ、32年から36年にかけては、労働者演劇集団「グループ十月」のために戯曲やシュプレヒコール、歌を書きつつ、同時に何本もの映画脚本を手がけた。しかし、32年に弟ピエールが初監督した喜劇『仕事は上々』をはじめ、不評だったり、実現しなかったり、完成作品も脚本に手を入れられたりで、決して順調な出発とは言えなかった。

 35年にはジャン・ ルノワールのために『ランジュ氏の犯罪』の脚本を書き、それに感心したマルセル・カルネが第一作『ジェニィの家』の脚本執筆を依頼する。そして以後、プレヴェールはフランスを代表する映画脚本家となっていく。カルネ=プレヴェールの作品は後に「詩的レアリスム」とよばれるフランス映画史上の一画期をなしたが、特に大戦中、『悪魔が夜来る』『天井桟敷の人々』『高原の情熱』などで、ドイツ占領下におけるフランス映画の矜持と、奇蹟的な豊穣の中心を担ったことは特筆に価する。

 彼は生涯に40本以上の映画の脚本に係わり、そのうち25本以上に名をクレジットした。日本で公開または放映・発売された作品には、カルネの『ジェニイの家』(1936)『霧の波止場』(1938)『悪魔が夜来る』(1942)『天井桟敷の人々』(1945)『夜の門』(1946)、クリスチアン・ジャックの『幻の馬』(1945)、ジャン・グレミヨンの『高原の情熱』(1942)、ポール・グリモーの『やぶにらみの暴君』(1950)(現『王と鳥』)、アンドレ・カイヤットの『火の接吻』(1948)、ジャン・ドラノワの『ノートルダム・ド・パリ』(1956)などがある。

 プレヴェールは、後にシュルレアリスムの画家となるイーヴ・タンギー、戦後に有名な探偵小説シリーズ「セリー・ノワール」を率いるデュアメルの二人と兵役を通じて知り合い、24年、シャトー通りに一軒家を借りて共同生活をはじめ、そこへシュルレアリストの連中がしばしば訪れるようになる。この青春時代や「グループ十月」時代以来、プレヴェールのまわりにはいつも友情で結ばれた仲間がいた。そして仕事とともに新しい仲間が生まれ、その仲間たちを誘い、紹介し、仕事を共にする。喜劇映画を作り続けた弟のピエール、映画美術のアレクサンドル・トローネル、アニメーションのポール・グリモー、数多くの俳優や詩人や画家など、挙げればきりがない。

 プレヴェールは、1930年頃から友人に請われて様々な雑誌に作品を発表した。また、ハンス・アイスラーや幼なじみのクリスティアヌ・ヴェルジェ、ルイ・ベッシエール、ワル・ベルグなどの作曲家に歌詞を提供した。特に、1933年ベルリンから逃れて来たハンガリー人作曲家ジョゼフ・コスマは、ブレヒトの「ソング」にあたるものを目指し、節付けを期待しないで書かれたプレヴェールの自由詩に次々と作曲していった。これらの詩は仲間を魅了したばかりでなく、マリアンヌ・オスワルドやアニェス・カプリによって文学キャバレなどで歌われ、また朗読された。戦争中の1941年には、南仏の放送局の「プレヴェールとの散歩」という番組で、友人の名優ピエール・ブラッスールらがプレヴェールの詩を朗読したり歌ったこともあった。『悪魔が夜来る』の共同脚本家ピエール・ラローシュが計画したものだった。

 プレヴェールはしかし、詩や散文を一冊の詩集にまとめようという意志をもたず、原稿や発表誌をきちんと保存してもいなかった。1944年、ランスの哲学教師エマニュエル・ペイエの生徒たちは、あちこちの雑誌から詩を集め、タイプ印刷でこっそりプレヴェール詩の手帖を二百部作った。そしてそれは青年の宿(ユースホステル)などを通じ、手から手へと回し読みされた。

 第二次大戦の終わった1945年、若い編集者ルネ・ベルトレが、詩人アンリ・ミショーの勧めもあって、詩集を編むことを提案し、プレヴェールはそれを受け入れた。そして46歳にして、ようやくプレヴェールは一冊の個人詩集を持つことになった。それがこの『ことばたち』である。

 『ことばたち』は、1946年に初版が出版されるや、たちまちフランス文壇の事件となり、ジョルジュ・バタイユやガエタン・ピコンなどの作家・評論家がこぞってその出現の重要性を語った。当時78歳だったノーベル賞作家アンドレ・ジッドは『ことばたち』にすっかり熱中し、友人との集いの度に何篇も読んで聞かせている、と作者に手紙を書いた。この事実は『ことばたち』の成功がどのような拡がりを持ったかをよく表している。そして翌年、改訂増補版が出、詩集としては驚異的な売れ行きを示した。プレヴェールの詩は、仲間を超えてたちまち人々の間に拡がり、日々を暮らしやすくしてくれる万人の呪文となったのである。そして以後、一度も絶版になることなく読みつがれ、1992年頃までに300万部が売れた。現在では現代の古典として文庫版《Folio》の一冊となり、教科書版や学習の手引きさえ複数出ている。

 『ことばたち』には1930年から46年までの間に書かれた作品が収められているが、彼のそれまでの詩がここに網羅されたわけではない。以後も、同じ「夜明け叢書」《Le Point du jour》として、ベルトレの手で『見世物』(1951)『雨とお天気』(1955)『おはなし』(1963)『がらくた』(1966)『よもやま』(1972)と選集が順次編集され、その度に、新しい作品にまじってこの時期の多くの作品が収録された。プレヴェールの没後も、プレヤード叢書の全集を編集することになるラステル夫妻が、同様の手法で『夜の太陽』(1980)『第五の季節』(1984)をまとめた。

 彼の詩に作曲家が節付けした歌は、本書の目次につけた*印でも分かるとおり、驚くべき数にのぼり、愛の歌はもちろん、子どもの心でこの世を一瞬のうちに変えてしまう独特のおはなし歌や滑稽歌、辛辣きわまりない社会的な詩にまで及んでいる。特に、ジョゼフ・コスマは、34年の出会いから51年に不幸な友情の破局を迎えるまでに、55篇以上の詩に作曲した。これらの歌はコラ・ヴォーケール、フレールジャック、ムールージ、イヴ・モンタン、ジュリエット・グレコらによって歌われ、その中には、「バルバラ」「枯葉」「愛し合う子どもたち」「財産目録」など、大ヒットするものもあった。

 プレヴェールは、1956年の『ノートルダム・ド・パリ』を最後に、弟ピエールやグリモーなど、最も親しい仲間との仕事以外、次第に映画から身を退いていく。丁度ヌーヴェルヴァーグが起こり、その担い手たちによって、ルノワールを除く戦前からの監督や脚本家たちが手厳しい批判にさらされた頃だった。

 詩を書くかたわら、プレヴェールはコラージュの作成をしていたが、57年、はじめての展覧会が開かれ、以後、コラージュ作家の顔ももつことになる。そして『がらくた』や『イマジネール』(1970)には、その一部が収められた。

 フランスでいかにプレヴェールの人気が高いかは、いくつもの小学校や幼稚園がジャック・プレヴェールの名を冠していることや、没後15年の1992年、プレヤード叢書「プレヴェール全集I」が刊行され、たちまち十万部を記録して話題を集めたことでも分かる。プレヴェール全集IIの刊行は1996年、生誕百年の2000年を過ぎた現在も、毎年のように詞華集・絵本・映画脚本・評論・伝記・CDなどが刊行され、若い歌手たちが新しい作曲を得て歌っている。

 しかしながら、彼の歩んだ道は決して平坦なものではなかった。現在、古典として映画愛好者から高い評価を得ていても、発表当時は不評だった映画、実現に至らなかった脚本や企画、クレジットに名を残そうとしなかった作品の数は驚くほど多い。彼は妥協を知らず、食べるための仕事はしなかった。詩人としても、大衆的人気とは裏腹に、いやむしろそれ故に、正当な評価を拒む知識人たちもいた。その徹底した反抗的な姿勢が嫌われたのである。

 プレヴェールが何者であったかは、第二次大戦中の行動を見れば分かる。

『ことばたち』ジャック・プレヴェール 著 訳および解説と注解 高畑勲 1940年6月、フランス軍の敗走によって、彼は仲間とともにパリを逃れ、南仏に避難した。そしてハンガリー出身のユダヤ人だった二人の仲間、映画美術家トローネルと作曲家コスマをかくまい、対独協力のヴィシー政権成立後もそこにとどまった。そしてその間、トローネルとコスマは匿名でプレヴェールの映画の仕事をする。(戦後コスマが『悪魔が夜来る』の映画音楽の権利を主張して訴訟を起こした時、プレヴェールはコスマを全面的に支持した。)1942年11月からは南仏もドイツ占領下に入り、1943年8月、『天井桟敷の人々』撮影続行のため、プレヴェールはパリに戻った。

 第二次大戦中、プレヴェールは11本の映画にかかわり、そのうち8本(2本には署名せず)が実際に製作された。中でも抑圧者への反抗と自由への熱望が溢れた『悪魔が夜来る』と『天井桟敷の人々』は熱狂的に受け入れられ、フランスで苦難の時期を過ごした人々を勇気づけた。

 プレヴェールは戦中も「自由な外出」や「聖なる書」など、反抗的な詩を雑誌に書き、1943年の「ビュシ通りはいま...」で、占領下の索漠としたパリを庶民の日常生活によって見事に描写した。対独抵抗運動レジスタンスを行っていた友人たちとの友情は変わらず、重要な鞄をナチスの手から盗み出すなど、ひそかに手助けをして危ない橋を渡ったこともある。しかし、プレヴェールはいかなる戦争にも加担しなかった。組織にも一度も加わらなかった。三色旗や、祖国の解放というような観念にはまったく関心がなかったのである。

 まだフランス全土が〈解放〉されていなかった1944年、連合軍側の爆撃で破壊し尽くされたブルターニュの軍港都市ブレストで、「なんてくだらないんだ、戦争は」(「バルバラ」)と歌い、右からも左からも非難を浴び、コスマが節付けした歌は放送禁止となった。そして戦後、詩でも映画でも、いわゆる〈解放〉や勝利の喜びを楽天的に謳い上げることはなく、むしろ、弟の監督する一風変わった皮肉な滑稽劇などを別にすれば、相変わらず抑圧されている庶民の愛と悲劇を、『夜の門』『オーベルヴィリエ』(監督ロタール)『火の接吻』『小さな兵士』(監督グリモー、アニメーション)などで繰り返し描いた。

 〈解放〉後、『天井桟敷の人々』でガランスを演じたアルレッティはドイツ士官との恋愛をとがめられ、対独協力者として逮捕された。しかしプレヴェールの友情はゆるがず、カルネの『花の年頃』(完成せず)に彼女のための役を作った。それまでアルレッティにあてて書いた人物はすべて、たとえ肉体的に束縛され身を落としても、精神的には決して束縛されない自由な女だった。

 同じ頃、占領中ドイツ資本のコンチナンタル社で製作された『密告』(脚本は仲間のルイ・シャヴァンス)が「反フランス的プロパガンダ」であるとされ、監督のアンリ=ジョルジュ・クルーゾーが告発された。プレヴェールは、個人的にはあの映画があまり好きとは言えないが、と断りつつ、人はあれをスケープゴートに仕立てようとしている、として直ちにクルーゾーを擁護した。

 『ことばたち』を一読すれば分かるとおり、プレヴェールはまずなによりも自由と友愛の、そして徹底した反権威・反権力の詩人だった。彼はあらゆる支配や抑圧や差別に反対し、戦争や植民地支配を憎み、人間性の解放と自由を擁護して、抑圧されたものたちへの友情と連帯を歌った。それは子ども(パパやママにしずかに拷問される子どもたちの血... 「血だらけの歌」より)、女性、移民から動物たちや植物にまで及び、さらに早い時期から月や太陽、海や大地を筆頭に、あらゆる森羅万象に対する敬愛を呼びかけた。言葉の天才だったプレヴェールは、これらをすべて、彼独特の生き生きとしたユーモアと、激しい辛辣さで語った。たとえば1964年1月、地中海にボーキサイト処理の〈赤いヘドロ〉を放出する化学工業の計画に対して、プレヴェールはフランス・ソワール紙に抗議文を寄せる。(以下の引用はプレヤード版全集IIによる)


冷蔵庫の中にゴミ箱を空けるな。やつは怒りだすに決まっている。
海をいらだたせるな、毒を盛るな、クソで汚すな。彼女は仕返しできる力があるんだ。
そしてもしきみらが地球を愚弄し続けるなら、いつか、彼女はこらえかね、きみらを大声で嘲笑ってはじけ散るぞ。

(『よそと同じくカシスで』より)


 『ことばたち』などで繰り広げられるプレヴェールの反カトリックの激越さは度を超えているように見える。しかしその根底には、一神教的人間中心主義の独善に対する本能的な反撥があり、万物を等しく敬愛すべきだとする、この抗議文のような、汎神論的精神があったことを見逃すわけにはいかない。


 恋愛映画の名脚本家であったプレヴェールは、詩人としても「愛の詩人」とよばれ、世界的に有名になった。彼は、愛の諸相を歌っただけでなく、単純な言葉で愛や生や死の本質を見事に言い当てた。


生はさくらんぼ La vie est une cerise
死は果核 La mort est un noyau
恋はさくらの木。 L'amour un cerisier.

(『やぶにらみの暴君』=『王と鳥』より)


 命やくらしは果実で、死はその中にあって次の命を生み出す種、そして恋や愛こそが、命やくらしを育み豊かにする木であり、生きる喜びの源泉だというのである。彼は個人的に大恋愛も経験し、晩年には、「世界には五か六の不思議はなくて、ただ一つだけ。それは愛」(『よもやま』より)とさえ断言した。プレヴェールの愛はしかし、けっして相手を、そして自分を閉じ込めることではなかった。たとえ悲劇や別れに終わるとしても、愛し合ったその思い出は失われることがなく、大切な生きる糧になるのだと語った。そして彼は、実生活でも、別れた女性たちとの友情を保ちつづけることができた。


ひとりで眠る者は、その揺りかごを揺すられているのだ、その者の愛している、愛した、愛するであろう者たちすべてによって。

(『見世物』幕間劇より)


 プレヴェールは、1956年の小笠原豊樹訳『プレヴェール詩集』(書肆ユリイカ)以来、日本でも何度となく詞華集が編まれた。童話的作品も『月のオペラ』『おりこうさんでない子どもたちのためのお話』『バラダール諸島からの手紙』が翻訳されている。特に小笠原氏(詩人岩田宏氏)は、繰り返し詞華集の版をあらたにし、また、子ども時代の自伝「幼い頃」(『よもやま』所収)や「グループ十月」時代の戯曲「驚異の絵画」(『見世物』所収)など、重要な作品を訳してプレヴェールの紹介に大きな役割を果たした。しかし、文学史上重要な位置を占める代表作『ことばたち』の全訳はもとより、「頭の晩餐会」や「銃尾を空に」など、集中の根幹をなす長編詩の完訳は、今日まで一度も上梓されたことはない。

『ことばたち』ジャック・プレヴェール 著 訳および解説と注解 高畑勲 そもそも詩というものは音韻から生まれる魅力が大きく、『ことばたち』という題名が示すように、プレヴェールの作品は、たたみかけるような話し言葉の活力や言葉遊びを抜きにしては考えられない。これまで重要作の翻訳がなされなかったのも、その理由によるのかもしれない。この全訳の試みは、それをあえて犠牲にしてでも、プレヴェールは面白いし、プレヴェールを紹介することには大きな意義がある、という確信から出発している。

 日本では、フランス語学習者は入門にあたり、しばしばプレヴェールのやさしい詩を読む機会を与えられる。また、洋書店には常に文庫版『ことばたち』が積まれている。しかし、『ことばたち』全編を原語で読み通すことはそう簡単なことではない。なぜならば、プレヴェールは言葉の天才であり、言葉遊びを駆使して展開される反権力・反カトリック的偶像破壊の辛辣さは無類であるが、言葉遊びを楽しむにはよほどフランス語に馴れていなければならず、諷刺の前提となっている当時の時代状況の知識やキリスト教をめぐる常識も、我々日本人には乏しいからである。

 この『ことばたち』全訳は、これを考慮して、ルビを多用し、固有名詞などを脚注するとともに、詳しい注解と解説を、対照しながら見ることができるよう、別冊として付した。言葉遊びに関しても、原語の面白さや作者の意図と思われるものを注記した。そして、理解を助けるために『ことばたち』以外から参考詩句を適宜引用・訳出し、参考付録として「枯葉鑑賞」を巻末に置いた。

 注解にあたっては、プレヤード版のダニエル・ガジッリア・ラステルの注解を主に活用した。

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