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「動物農場」を語る川端康雄さん

「投資者」たちの「要望」

 そのような事情で、オーウェルの物語を原作としつつも、ハラス&バチュラーのアニメーション版はいくつかの重要な相違点が生じた。その最たるものが、結末の変更である。ナポレオンの独裁体制が固まって、「すべての動物は平等である」という本来のスローガンに「しかし一部の動物はほかの動物よりももっと平等である」が加わるというのは後者でも踏襲している。だが、原作で、ナポレオンが敵であったはずの人間たちを農場に招待して、和気あいあいと宴会に興じていたところ、トランプゲームのペテン騒ぎで双方のいがみあいになり(結びの段落を拙訳で掲げると)、

十二の声が怒って叫んでいました。そしてその声はみんなおんなじようでした。いまや、ぶたたちの顔がどうなってしまったのか、うたがいようはありませんでした。外から見ていた動物たちは、ぶたから人間へ、人間からぶたへ、そしてぶたから人間へと目をうつしました。でも、もう無理です。どっちがどっちだか、見わけがつかなくなっていたのです。

とあるのが、アニメーション版では、人間は登場せず、堕落した豚たちについに堪忍袋の緒が切れた他の動物たちが(原作では最後まで「非政治的」な「静観主義者」だったロバのベンジャミンが、ここでは親友の馬ボクサーが豚の陰謀によって悲惨な最期を遂げたのを契機についに目覚め、リーダーとなって)外部の動物たちの援軍を得て反乱を起こし、豚を退治するというハッピーエンドになる。

 映画史家のトニー・ショーによれば、バチュラーは「原作の結末どおりにしたい」と願っていて、「部外者の干渉にしだいに不満を覚えるようになっていた」というが(『英国映画と冷戦』二〇〇一年)、結末の変更は制作の初期段階から既定路線となっており、あくまで原作どおりの結末で、という強い姿勢は取っていない。ハラスについていえば、ニューヨークでのプレミア上映の直後に一人の女性が感涙にむせんで彼に抱きついてきたので、「ただのアニメの物語なのですから」と言って相手を落ち着かせたというエピソードがある(G・ベンダッツィ『カートゥーン─アニメーション映画百年史』による)。結末をそのように変えたからこそ、感銘を与えられたのだとハラスは示唆している。

 一九一二年にハンガリーのブダペストで生を享けたジョン・ハラスは、下積み生活ののちにブダペストで仲間とアニメーション・スタジオを設立、その仕事が注目されて三六年にイギリスのスタジオから声がかかって渡英(バチュラーとの縁がここでできる)。ハンガリーは第二次世界大戦ではドイツの圧力で枢軸国への加担を余儀なくされ(ユダヤ系のハラスはこれで事実上の亡命者となる)、戦後はソ連の衛星国として共産主義体制下に置かれる。「動物農場」の制作期間はラーコシの恐怖独裁政治の時期にあたり、ハラスが母国の身内や友の境遇を案じつつ制作にあたっていたことは想像に難くない。その点で、「投資者」の思惑とは別に、豚を打倒する結末にする個人的な動機は十分にあったわけだ。完成の二年後の一九五六年、ハンガリーでは独裁政権に対する大規模な民衆蜂起が起こる。だがこれは、アニメーションの大団円とは異なり、ソ連が介入して徹底的に弾圧、蜂起した民衆のうち数千人が死亡し、およそ二十万人が亡命する。

 しかし「投資者」にとってはこうした変更は心理戦の効果を狙った政治的な配慮以外のなにものでもなかった。上記の結末の改変は、共産圏に対する米国政府の「封じ込め」作戦から「巻き返し」作戦への政策転換を反映している。一九五三年にダレス国務長官はこの「巻き返し」政策を声高に唱えた。共産圏で「奴隷」とされた諸国民を看過せず、積極的な行動によって解放してやらなければならない、という考えである。結末をこの作戦にダブらせることが「投資者」にとっては肝心なことだった。そのためには結末で人間(資本主義者)を豚と同列にしてしまうのは具合が悪い。ピルキントンやフレデリックは必要ない。農場の奪回作戦に関わるのも農場主たちではなく、ジョーンズとその手下だけでよい。「悪い農場主は一人しかいない」のだから。スノーボールの同情的な描き方はいかがなものか。スノーボール(トロツキー)が追放されずにいたら動物農場(ソ連)はまともな社会になっていただろうと受け取られてしまう。政権に就いてもなにもできない無能で狂信的なインテリとして描くべし。外部の動物たちの描き方も要注意。善人が経営する農場(西側陣営)では動物は自由で満ち足りて幸福なのだからそのように描くべし─等々、「投資者」たちは、最初から最後までこのような修正意見を出しつづけた。彼らの見解では、バチュラーの初期の脚本には「共産主義そのものは正しいのにスターリン一味のせいでそれが裏切られたのだとする思い込み」が見られるが、これは資本主義社会についての彼女の「消極的な描写」とともに、「われわれには受け容れがたい」として、そうした「誤解」がなくなるまで、脚本の書き直しが求められた。