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フライシャーとは

スタジオの歴史

 マックス・フライシャーによる、人間の演技をアニメーションで再現するロトスコープにより、フライシャー・スタジオの歴史は始まった。

 1916年、フライシャー兄弟はアニメーション制作会社のブレイ・スタジオと契約、ロトスコープによる『ココ(インク壷小僧)』シリーズを制作し成功を収め、1921年にニュー・ヨークに「アウト・オブ・ジ・インクウェル・フィルム社(後のフライシャー・スタジオ)」を設立。同社にはフライシャー家の他の兄弟も所属しており、製作マックス、演出デイブ、撮影ジョー、作画エセル、音楽ルー、営業はチャールズが担当した作品もある。

 1920年代には、小さなボールが歌に合わせて歌詞の上を飛び跳ねる「バウンシング・ボール」を用いた、ミュージック・ビデオの原型とも言える作品や、実写教育映画『相対性理論』、『ダーウィンの進化論』のアニメーション・パートなどを制作し、『トーカートゥーン』(1930)シリーズからは後にシリーズ化される人気キャラクター、ベティ・ブープが生まれた。

 その後、ミッキーマウスに対抗すべく1933年に『ポパイ』シリーズを制作、1934年にはディズニーの『シリー・シンフォニー』に対抗した『カラー・クラシック』シリーズを始めるなど、この時代においてディズニーとしのぎを削るスタジオの筆頭であった。1938年にはパラマウントからの資金援助を得てニューヨークからフロリダ州マイアミに移転、スタッフは総勢約400人となる。1941年から人気アメリカン・コミックの『スーパーマン』シリーズを制作し、アカデミー賞短編アニメーション部門にノミネートされた。

 1937年にディズニーがカラー長編『白雪姫』を手がけたのをきっかけに、フライシャーも長編制作に乗り出し、1939年のクリスマス、初の長編『ガリバー旅行記』を公開。1941年暮れの真珠湾攻撃の直後に長編第2作『バッタ君 町に行く』を公開する。しかし興行がふるわず、経済的な理由によりフライシャー兄弟はスタジオを去り、同スタジオはパラマウントが経営するフェーマス・スタジオと名を変えて60年代後半まで活動した。


ロトスコープ

 アニメーションの作画手法の一つ。モデルに実際に演技をさせてその様子を撮影し、そのフィルムに写っているモデルの映像をひとコマずつなぞって線画に起こし、再びその線画から作成した絵を撮影してアニメーションにすること。マックス・フライシャーが1917年に特許を取得し、『ココ(インク壷小僧)』で初めて商業作品に使用され、ディズニーでも実写映像を参考に作画する手法きっかけになったと言われている。ラルフ・バクシが手がけた『指輪物語』(1978)などでも用いられている。


セットバック

 アニメーションの撮影手法の一つ。背景を立体模型で作成し、その手前にセル画を置いて撮影すること。それまで背景は平面で表現されていたが、奥行きという3次元の表現を可能にし、ディズニーが後に開発するマルチプレーンに影響を与えたと言われている。