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中島順三さん

スケジュールは酷かったけれど、幸運に恵まれた作品

中島順三

 テレビシリーズの「赤毛のアン」は一九七九年(昭和五十四年)一月七日、第一話の放送から始まり最終話の第五十話は十二月三十日で完結しました。早いものであれからもう三十一年の月日が経過しました。この三十年の間にアニメーションの作り方は変わりました。デジタル化が進み、CGによる作品も増え、家庭用テレビに3Dの大型が登場する時代になりました。技術はどれ程進化したのか、技術の変化により表現する世界はどう進むのか。制作の現場を離れて久しい自分にとって興味はあるものの、三十年前のあの時代の作り方に懐かしさを感じています。

 今回上映される「赤毛のアン」は、このテレビシリーズを高畑監督がみずから編集したものです。あの時代の作り方をお伝えすることで、この作品の魅力の一端をお伝えできるかもしれないと思って書いてみることにしました。
 
 
 「赤毛のアン」の制作スケジュールの酷さは余りにも有名になりすぎました。あちこちでそれが話題にもなりました。その噂を聞いて参加するのを恐れたアニメーターもいたのです。なぜ、そのような過激なスケジュールになったのか不思議に思われる方もいらっしゃることでしょう。

 テレビシリーズの制作の厳しさは、放送がスタートすれば何があろうとも一週間に一話のフィルムを完成させねばなりません。持ち時間は限られています。プランではシナリオ、絵コンテを十週以上前(放送予定日の)に作っておくことが望ましいのですが、それはあくまで理想的な形で、実際はおせおせになって、前の話数に時間を使い過ぎて遅れが出れば、次の話数にかかるのは当然遅れることになります。

 それが積もり積もってくれば恐ろしい状況が待っているのです。

 現在、監督と呼ばれている人たちの仕事は作品全体をまとめることで一話一話は担当演出にまかせるのが普通のようですが、「アン」では全話数、全カットの全てに高畑監督のチェックが入るのです。大変な仕事量になるのです。指示通り上がっていないものは直しを要求し、再度目を通すのです。原画の演出チェック以前に沢山の仕事を片付けなければならない監督の仕事│シナリオ発注のための打ち合わせ、第一稿が上がったら直しの打ち合わせ、決定稿ができたら絵コンテ発注のための打ち合わせ、絵コンテが上がってきたら直しの打ち合わせ又は自分で直接直しをする。

 画面構成(レイアウト)のチェック。作画の打ち合わせ、上がった原画のチェック。美術背景への注文、編集(フィルム)に立ち会い注文を出し、確定秒数の確認、録音監督と音声に関する打ち合わせ、アフレコ・ダビングへの立ち会い。完成初号試写に立ち会う。身体が二つ三つ欲しい状態になる程の仕事量です。そこで手ばなせる部分は手ばなしても、絶対に自分で行うしかない仕事だけでも寝る時間がなくなるのです。その部分こそ監督が自分の仕事としているところなのですから、他人が手伝ったりはできないのです。「ハイジ」「三千里」と高畑監督と共に完成度の高い作品を作ってきた宮崎駿さんはワンクール終了後ぐらいに映画の仕事へと移っていったのです。大変なことでした。制作体制を見直さねばならなくなりました。

 この難しい仕事を櫻井美知代さんが後を引き受けてくれました。プレッシャーもある中で挑戦してくれたのです。雑然とした作画部屋では集中力がとぎれるので自宅作業になりました。小さく区切った空間を作り、暗くして集中力を高めてモーレツに取り組んでくれたのです。

 キャラクターデザインと作画監督を引き受けてくれた近藤喜文さんは「アン」の仕事をするために古巣のプロダクションを離れて来てくれたのです。原作本を読んでイメージして描いてくれたオリジナルのキャラクターのスケッチが残っていますが、そこからは、高畑監督と二人で開発にかかったのです。ある日高畑さんから「一週間会社に来ないで自宅で近(こん)ちゃんと二人でキャラをまとめたい」と申し出がありました。約束通りにアン・シャーリーの魅力的なキャラが出来上がってきました。

 近藤さんの作監作業は粛々と進みました。

 残りの話数も少なくなったころ、突然作画監督の近藤さんを病が襲ったのです。肺の病気でした。口数も少なく無駄話などしない人ですから、自分の持っている病気についても語ったりはしていなかったので知らずにいました。肺の病気と聞いて驚き心配になりました。命にかかわる病です。急いで会いに行きました。当然医者は仕事を休むように言ったのです。入院休養が必要な人に働いて欲しいとは誰も言えません。しかし彼は鍼の治療を続けながら仕事を続けたいと言ったのです。私は言葉がありませんでした。もちろん、仕事は続けて欲しいのですが命がかかる病です。続けてくれとは言えるはずもありません。また、途中で重くなるような事があったらどうすれば良いのかもわかりませんでした。

 あの時の近藤さんに勇気ある決断をさせたのは一体何だったのか、ちゃんと本人の口から聞いておくべきでした。あの時入院治療を選択していたら現在の形で「赤毛のアン」は残っていなかったのは間違いないのですから。

 美術の井岡雅宏さんは「ハイジ」以来五年ぶりに高畑さんと組むことになりました。井岡さんは一作品ごとに自分のスタイルを新しく作ることを志していますから、前作品同様でとお願いしても「ノー」の返事しか返ってこないのです。

 約束の時間に遅れて井岡さんの描いた背景原図を持って行ったプロダクションで「今頃持って来たって出来る訳ないだろ! 持って帰れ!」と追い返されるような時もありましたが、今更それを持って行ける所はないのです。受け取ってもらい、その上無理を承知の時間に仕上げてもらわなければならないのですから、帰ることは出来ず床の上に座り込んで「やるよ」と言ってくれるまで動かないこともありました。今ではお互いそのことを笑い話のように語れますが、実際あの時、あの瞬間の気持ちを思い出すと背中に冷たいものが流れます。責任を持った仕事が出来ないと、断る側の気持ちは理解は出来てもそれを認める訳にはいかないこちらの事情も相手は承知しているのです。立場は異なりますが「アン」のスタッフの一員であり、お互いに作らねばならないのですから、最後は大抵の場合引き受けてくれるのでした。

 井岡さんに学ぼうと若い美術志望の人が助手に来たいと集まってきました。あるとき、こんな事がありました。スケジュールはもうこれ以上さがれないような状況で最終便(撮影場所まで素材を運ぶ車)が出る時、高畑監督が通りかかり背景が指示通りに上がっていないことに気が付いたのです。井岡さんは「自分が直す約束をしていたが忘れていたからすぐに手を入れます」と背景を持って美術室に行くのです。制作部は今すでに出発予定時間を過ぎていて、これ以上遅れたら撮影部に与えられた時間内では撮影が終わらない事になるのです。

 すでに深夜三時を回っていて、撮影終了予定は五時半で五反田の東洋現像所(現在のイマジカ)には六時までに撮影済みフィルムを持ち込む約束をしていたのです。東洋現像所は朝六時から現像機が働けるように数時間前から準備して待ってくれているのですから遅れるわけにはいかないのです。六時までに持ち込めなければ必ず状況確認の電話が入ります。

 「はいっ。もう出ました!」と言って電話を切ってから慌てて車を出すのです。鮨屋の出前が遅れて、客から苦情の電話に答える。「ハイ。今出ました」と言いながら、まだ握っている状況に似ています。

 井岡さんは横長の背景を四枚、十五分で直すと言いましたが、十五分では終わりませんでした。あちこちに遅れたことで迷惑をかけましたが、初号試写を見た時、誰もが直して良かったと思ったのです。

 編集部は撮影済みが現像所に入ったとの報告を聞いて現像上がりの時間までに五反田に着くようにスタジオを出ます。現像済みのフィルムを編集し、原版(画と音とを同期するように組むこと)を作り、再び現像所に渡して放送用プリントが完成するのです。 

 録音に関しては、録音監督の浦上靖夫さんが朝早くにスタジオに来て高畑監督と絵コンテ上で打ち合わせをし、注意するセリフ、音楽を入れる場所や曲想など細かく話し合います。

 アフレコ(画に合わせてセリフをとる)時に画がまだ出来ていないのですが、声をとるためにフィルムが必要で、セリフの長さが色鉛筆で役ごとに色分けしてタイムシート上に作られます。

 画がなくてのセリフどりですから、役者の方も苦労でした。

 アン役の山田栄子さんは浦上さんの事務所で画のないフィルムを見ながら二人で準備をするのです。アフレコの本番までにほとんどのセリフは頭に入れていました。マリラ役の北原文枝さん、マシュウ役の槐柳二さん二人のベテランの中で新人は大変だったでしょうが、録音風景はなごやかな雰囲気で行われていたようです。

 私たちは幸運に恵まれたのかもしれません。時間のない中で、絶望的なミスが一度も起こりませんでした。緊張と集中力がうまい具合にかみ合った結果、皆の心が一つになっていったのです。そしてこの作品に関わったことを幸せに感じたのです。

 忘れてならないのは、大勢の視聴者の応援(年平均十六・二%の視聴率)です。力強い支えをもらいました。お陰様で三十年を経てなお若い人がファンですと言ってくださるのです。

 これからの新しい世代にも愛されるアンであって欲しいと思っています。

(プロデューサー なかじま・じゅんぞう)