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宇野常寛さん

アン・シャーリーを「戦後」の呪縛から解き放つために

宇野常寛  

 『赤毛のアン』は戦後日本において特異な存在感を放つ少女小説である。モンゴメリの原作は少女文学の古典、不朽の名作として世界的に認知されているが、日本における受容は少し変わっている。国内におけるアンの受容は、原作がベストセラーになったモンゴメリの存命時から数十年を経た戦後期にむしろピークを迎えており、70年代末の高畑勲によるテレビアニメ版により決定的なものになった。約半世紀のブランクを経て、『赤毛のアン』は日本の文化空間に定着したと言え、そして先進各国を比較しても日本における同作の人気は非常に高い。「戦後の女性の自己形成に非常に大きな役割を果たした作品」という評価も定着しており、児童文学/少女小説のものとしては先行研究も多い。そしてそれだけに『アン』をめぐる言説はやや硬直化していると言ってよいだろう。それは概ね、同作の物語が結果的に戦後日本における女性の(マジョリティの)自己実現のロール・モデルとして機能したという前提のもとに、そのことを肯定/否定するというものである。

 過酷で貧しい幼少期の体験から夢見がちな少女に育ったアンが、そのイマジネーションの豊かさゆえに周囲から愛され、よき里親を得ることで救われる。そして学業でその才覚を現すがそれをもってして決定的な自己実現を果たす(作家として大成する、大学教授になる、など)ことはなく、里親が老いては地元で教職に就きながらその傍にある。――アンの辿った人生は結果的に、建前としての男女平等と本音としての男尊女卑の力関係がもたらした戦後日本「中くらいのリベラル」、「中くらいの自己実現」というモデルに合致しており、それゆえに戦後日本において「こそ」決定的な存在になり得たのだという既存の分析の前提はほとんど疑いようがないだろう。「男女平等」を憲法に明記しながらも、税制、福祉、教育あらゆるシステムが専業主婦のいる家庭を前提に設計された戦後の日本社会は、女性たちに建前としては「騎兵にも大学教授にもなれる社会」(江藤淳)を謳いながら、社会の受け皿としてはせいぜい看護師なり教員なりといった戦前から「女子(も参加し得る)職業」として慣例的に認められてきたものしか存在しなかった。その結果、多くの女性たちが家庭に入ることを宿命付けられ「不機嫌な娘たち」(上野千鶴子)になっていったのだ。『赤毛のアン』という「中くらいの自己実現」を孤児の少女が獲得する幸福な物語は、そんな「不機嫌な娘たち」の生を肯定するように作用したのだ。

 たとえばこの構図をフェミニズム的な見地から批判し戦後日本社会の欺瞞を批判する立場に立つことも可能だし、その逆に「戦後」的な社会の安定を取り戻すために『赤毛のアン』という諦念の物語が必要なのだと再評価の必要性を叫ぶことも可能である。前者の代表例が数年前に「アン」ファンたちの間で話題になった小倉千加子『「赤毛のアン」の秘密』(岩波書店、2004)だろう。ここで小倉はモンゴメリの不幸な結婚生活に言及しながら戦後における『赤毛のアン』の受容に「中くらいの自己実現」を強いられた戦後の女性たちの姿を批判的に抉り出している。後者の代表例は大塚英志『物語消滅論』(角川書店、2004)だろう。ここで大塚は、2004年に発生した佐世保小6女児同級生殺害事件に言及し、その加害者である女子児童が犯行前に高見広春『バトル・ロワイアル』(太田出版、1999)の愛読者であり、事件後は保護施設で『赤毛のアン』を読みふけっていることを取り上げた。そして彼女はもっと早く『赤毛のアン』のような物語に出会うことで自己形成すべきだったのだ、とまで結論している。

 一見、相容れないもののように見える両者の評価の間にはつまるところ、戦後社会を(戦前の前近代的な社会からの)「解放」として評価するか、それとも今なお残る封建的な社会構造を批判するかの違いしか存在しない。それはいわばコインの裏表であり、それゆえに私は現代において両者の対立が決定的なものだとは考えない。そしてこの対立に『赤毛のアン』を日本で読むことの意義を収斂させるのはいささか「勿体ない」ことのように考えている。なぜならばもはやこの国の社会は(今度こそ本当の意味で、そして決定的に)「もはや〈戦後〉ではない」からだ。

 
 『赤毛のアン』の国内受容は、戦後社会が女性たちに強制した「中くらいの自己実現」との親和性の高さに支えられていた――その事実認識それ自体に私はまったく異を唱えるつもりはない。しかし、彼女たちの「中くらいの自己実現」を強制した戦後的なるものは既に崩壊して久しい。誤解しないでほしい。私は現代の日本社会が男女とともに「騎兵にも大学教授にもなれる」平等な社会を実現したなんてことは微塵も考えていない。むしろその逆で、バブル崩壊から平成不況、小泉構造改革に至るこの15年前後の間で、終身雇用と年功序列が象徴する日本的企業経営の風土によって支えられてきた男性社会が崩壊することで、むしろ男性たちが女性たちの世界に下りてきた、と考えている。

 より詳細に分析するなら、戦後日本社会は男性たちには企業戦士としての「中の上の自己実現」を強制し、女性たちには専業主婦と結婚前までの補助的な仕事という「中の下の自己実現」を強制してきた社会だった、と言える。しかし、90年代以降の社会構造の激変は、この戦後的な「中くらいへの強制」を破壊したのだ。

 その結果、何が起こったか。国内社会はグローバル市場での競争を戦い得る少数の自己実現ゲームの勝者と、大多数の(戦後期とはまた異なったかたちでの)「中の下の自己実現」の世界に結果的に留まる勝者ならざるプレイヤーたちに分離した。つまり、戦後期は「男性である」というただそれだけで「社会に出で一生仕事ができる」という位置=「中の上の自己実現」に甘えられていた男性たちの大部分が、戦後的なものの崩壊で「誰がやっても同じ仕事」をコミュニティの「部品」としてこなすという、戦後日本において女性たちが押し込められていた「中の下の自己実現」の世界に移動せざるを得なくなった、と言えるだろう。端的に言えば、現代とはほとんどの人間が社会的自己実現に縁のない社会が到来しているのだ。

 そんな世界において『赤毛のアン』を読み直すとき、そこに既に喪われて久しい「戦後の欺瞞/達成との親和性」を読み込むことに、私はさほどの意味があるとは思わない。重要なのはむしろこのテキストと戦後社会の親和性がもたらした「幸福な誤解」を取り払ったとき、日本でアン・シャーリーの人生を追うことの意味を問う行為ではないだろうか。

 
 私の知る限りこの問題にもっとも肉薄している論考は小谷野敦の分析である。小谷野は「実現すべき自己などない時」と題した文章(『聖母のいない国』(青土社、2002年)所収)の中で、「自己実現」という概念そのものが近代社会のもたらした欺瞞であり、それがゆえに『赤毛のアン』への支持も絶えることがないだろうと結論している。

 
 《そして実は、男たちも同じことなのだ。(中略)多数の人間には、何らかの技能への特殊な執着などありはしない。人の願望などというものは、周囲の環境が作り上げるものだ。(中略)戦後の男の子たちは、とにかくいい大学を出ることを夢見ただろうが、その先に待っているものは、概ね組織の歯車になることでしかなかった。ごく少数の者たちだけが、藝術や学問やスポーツで「自己実現」ができたのである。「アン」の島を訪れ、「アン」の料理を模倣する少女たちは、自分たちがその少数の中に入れないことを知っている。彼女らを「アン」の世界からもぎ離そうとすることは、飛べないアヒルを籠から出して羽ばたかせようとするようなものでしかない。》

 
 小谷野の主張を言い換えれば、自己実現にまつわる戦後的な欺瞞とは、近代社会そのものが不可避に孕む欺瞞であり、それゆえに『赤毛のアン』は常備薬のようにその役割を果たしていくのだという立場に他ならない。この現実認識は身も蓋もないが、それゆえに酷薄なまでに、正しい。だが私はこの現実認識をもう少しポジティブに読み替えることができるのではないかと考えている。そして、小谷野の指摘する「自己実現」というものの孕む幻想が、社会状況のなかで決定的に解除されつつあるように思える今、それが、現代における『赤毛のアン』というテキストを読み返す最大の意義であるとすら考えているのだ。

 
 アンに「中くらいの自己実現」をもたらしたものは、具体的にはなんだったか。もちろんそれは異常なまでに人々に均質化を要求した「戦後社会の欺瞞」などではない。アンの「中くらいの自己実現」をもたらしたものは、言ってみれば「運命」だ。マシュウとマリラの老兄妹に引き取られたことも、その後マシュウの突然死によって進学を断念しなければならなかったことも、そして膨大な続編群で描かれた学業上の宿敵ギルバートとの恋愛と結婚、そしてその後の人生を彩る喜怒哀楽も、決して当時のカナダをとりまく特異な政治状況の産物ではなく、「運命」として彼女の前に登場する。当たり前のような話だが、決して冗談ではない。『赤毛のアン』というテキストはそもそもプロテスタンティズム――とくに長老派のそれを少女小説のドラマツルギーを支配する法則として機能させたものであることは明らかだ。アンに「中くらいの自己実現」をもたらしたのは、「戦後」的な「中くらいへの強制」ではなく、近代化が進行する中でその自己決定の限界を補完するために機能したプロテスタンティズム的な運命論の存在に他ならない。(当たり前の話だが)近代資本主義とは、自己決定という名のゲームを強制されつつも、自己実現という成果が保証されないシステムであり、運命論はこうした過酷な/そして不可避の現実を受容するために機能したのだ。アンの20世紀における世界的な支持の背景にあったのは、端的に述べれば資本主義経済の拡大と同時に自己実現という欺瞞に満ちた幻想が拡大し、そのためプロテスタンティズム的な運命論の需要も拡大したと考えるのが妥当だろう。したがって、「幸福な誤解」によって国内においてその巨大な存在感を獲得してきた『赤毛のアン』は、本来のプロテスタンティズムを背景にした教養小説として読み「戻される」必要があるだろう。とくに、男性までもが「中の下の自己実現」の世界に下りてきた現代日本においては。

 
 そして、誰もがアン・シャーリーとなった現代日本社会を、私はそれほど不幸だとは思わない。アンという少女の魅力は、本来その才覚によって奨学金を手にする才女としてのそれだっただろうか? 私はそうは思わない。私たちがアンを愛するのはその想像力ゆえである。より正確には、アンの想像力は「ここではない、どこか」へ自分をつれていくためのものではなく、「いま、ここ」の自分を取り巻く現実を豊かなものに読み替えるための想像力ではなかったか。「ここではない、どこか」を喪い、「自己実現」という幻想から解放された私たちの生は、本当に不幸なものなのだろうか。

 
「私のこと、コーデリアと呼んでくださらない?」とかつて彼女は言った。10歳の春だった。彼女は想像力を駆使して現実を読み替える術に長けていた。近所の並木道を「喜びの白い道」と溜池を「きらめきの湖」と名付け、日常空間をまるで別の空間に塗り替えていく。ちょっとした魔法の遣い手、それがアン・シャーリーだった。彼女の魔法はマシュウとマリラ――ふたりの年老いた兄妹の灰色の日常をも極彩色に変貌させていく。だからこそ彼女が15歳を迎えたとき、私たちは兄妹とともに涙する。そのアンの想像力は大きく縮退し、その隙間にしっとりと力強い知性が宿る。その喪われたものの美しさと得られたものの別の美しさが共存し得ない現実に、私たちは傷つき涙を流すのだ。

 
 かつて――「戦後」と呼ばれたその時間に、現実への諦念の物語を幸福の物語に偽装する装置として機能した『赤毛のアン』は、「もはや〈戦後〉ではない」現在、「自己実現」という幻想を解除してより豊かに現実を生きるための想像力の行使例として、再び私たちの自己形成に大きく寄与し得るポテンシャルを秘めている、というのは言いすぎだろうか。アンの「中くらいの自己実現」は、戦後の「中くらいの自己決定の強要」という自由で不自由な時代の理想化としてではなく、まさにカルヴァン的な世界観が否応なく肥大し、全世界を覆ったこの現代のグローバル資本主義下の生の寓話として読み返されるべきなのだ。

 私たちは近代的な自己決定ゲームへの参加を強制されながらも、その酷薄さを運命論的に受け入れるしかない。私たちは自己実現なんて、ほとんどの人間には縁がないにもかかわらずそこに向かって自己決定せよという理不尽なシステムから逃れられなくなっている。そんな世界で私たちが武器にし得るのは、「いま、ここ」を自己実現などしないままに読み替えることのできる「想像力」なのだ。

 
 この「再読」にもっとも適したテキストは、(戦後期のそれとはまったく異なった意味で)やはり高畑勲によるアニメ版「アン」になるのだろう。高畑によるアニメ版は、ある種のリアリズムをその表現の基調に置いている。俗に「映画的」と表現されるその演出コンセプトはより正確には、ビジュアル(キャラクターデザイン、背景など)のディフォルメのレベルを抑えることで、キャラクターに「生活」するという芝居を可能にさせたもの、とひとまずは言える。私見ではこのコンセプトはシリーズの序盤にもっとも威力を発揮している。具体的にはこの時期度々挿入されるアンの「想像」をビジュアル化したシーンは彼女たちが「生活」し得るキャラクターとしてそのリアリティのレベルを設定されているからこそ成立するものだ。「想像力」が世界を塗り替えるためには、私たちは日常の生活する身体が確認されている必要がある。高畑が描き出したアニメ版「アン」は、シリーズ初期においてはリアルに描写される日常の生活空間と、アンの想像力が描き出す世界との往復運動で成立しており、物語が進むにつれ(つまりマシュウ/マリラなどの視点人物がアンを受け入れ、感化されることで灰色の日常を徐々に彩ってゆくにつれ)両者の距離が接近していくという構造をもっている。その距離がゼロになるのがシリーズのターニング・ポイントになる「十五歳の春」(第37話)であり、その後アンは私たちが投げ出された世界の構造――不可避の自己決定ゲームとその運命論的な限界に直面していくことになる。

 アニメ版「アン」の演出レベルでの再解釈のもつ射程距離は、「戦後」という時間よりもはるかに長大であり、それゆえに同作をグローバル資本主義/ネットワーク下の自己形成テキストとして読み直す手がかりを秘めているのだ。

 
 自己決定と運命論の狭間に捨て置かれた私たちの生は、かつて〈戦後〉と呼ばれた時代よりも、ある意味はるかにアン・シャーリーの生に近い。なぜならば、歴史から切断され(ているかのようにどうしても見えてしまう)ビッグ・ブラザーを喪った私たちは孤児のようなものなのだから。アンを「戦後」から解き放ち、自己決定論と運命論の狭間で揺れ動く現代の寓話として読み直すこと。グリーンゲーブルズへの道を再び喜びの白い道と呼びかえることに可能性を見出すとき、『赤毛のアン』という名作は戦後的な欺瞞と保守性から解放され、限りないポテンシャルを秘めた存在として私たちの前に再登場する。

(批評家 うの・つねひろ)