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柴崎友香さん

想像すること―
それは憧れや意志を強くもって成長していくための聖域

柴崎友香

テレビアニメ版の思い出

 テレビで「赤毛のアン」が放映されていた一九七九年、わたしは六歳、小学校一年生だった。

 誰にも負けないくらいのテレビっこだったわたしは当然「赤毛のアン」も見ていた記憶がある。しかし、内容はあまり理解していなかったようだ。まず、アンとマシュウとマリラの関係がわからなかった。子どもの考えとしては、同じ家に住んでいるのだから親子だろうと思い込んでいたのだが、ではなぜ子どもであるアンが「マリラ」と呼んでいるのか。それに年も離れすぎている気がする。変だと思いつつも、なんとなくそんなもんかと勝手に理解してわからないまま見続けられていたのも、さすが六歳、と思う。

 六歳の女の子にとってアンは、そんなに興味を引きつけられる対象ではなかった。正直言って、アンに華やかなかわいさはない。六歳女児には、お姫様や魔法が使えて変身できる女の子が人気者だった。

 それに、思い返せばアンは自分と似ているところがある。わたしもよくしゃべったし、周りの大人に質問ばかりして、しかも理屈っぽくて納得いくまで引き下がらなかった。そんな自分と近い女の子の物語を楽しむほどには、わたしは成長していなかった。

 それでも、はっきりと覚えている場面がいくつもある。まずはダイアナの髪型。黒髪を二つの三つ編みにして輪っかにした独特の髪型は、女の子たちの憧れをそそるものだった。洋服もアンと違って明るい色でひらひらしていたし。そのダイアナがいちご水と間違えてお酒を飲んでしまうところやアンが石版でギルバートを叩く場面など有名なエピソードは、さすがに覚えている。

 でもなにより強い印象だったのは、マシュウとマリラだ。どんな存在かわからなかったにもかかわらず、小学校で友だちとよく口まねをした。「そうさのう」と低い声で言い合ったものだ(それだけで当分笑えるのだから、子供って単純だ)。

 
原作シリーズを読んで

 そして改めて「アン」と出会ったのは、おととしのこと。ある雑誌の依頼で「アン」シリーズ全十冊を一気読みしてエッセイを書いてほしい、と頼まれたのだ。「アン」に続編があることはなんとなく知っていたが、『赤毛のアン』『アンの青春』から『アンの娘リラ』まで全十冊、しかも一冊ずつ結構な厚みがある大長編だとは思わなかったのでたじろいだが、こんな機会でもないと読み通さないかもしれないと思い引き受けた。

 読み始めてすぐ、それまでぼんやりと持っていた「アン」という物語の印象が変わった。

 分厚い本のページをめくってもめくっても文字がぎっしり。その大部分はアンのおしゃべりであり、周りの女の人たちもとにかくいろんなことを話す。数ページも続くアンのおしゃべりの、妙に大げさな言い回しと、笑ってしまうほど正直すぎる周りの大人たちへの視線。

 なんとなく子供向けの話だと思い込んで読む機会を逸していたなんて、うっかりしていた。

 日本では「赤毛の」という部分があまりにも有名だが、原題は『グリーンゲーブルズのアン(Anne of Green Gables)』。アンという少女の成長物語ではあるが、彼女を取り巻くプリンスエドワード島の人々、そしてこの素晴らしい場所についての物語なのだった。

 最初に登場するのは隣人の口うるさいレイチェル・リンド夫人。それからマシュウ、マリラと続く大人たちに、アンという異物が発見され、物語が動き始める。

 アンは実に「ちぐはぐな」子供だ。妙に大人びた丁寧な言葉で話し続けるかと思えば、お祈りを一度もしたことがないと言ってマリラを絶句させる。日曜学校に摘んだ花で飾った帽子をかぶっていってひんしゅくを買ってしまう一方、孤児院での経験から小さい子供たちの面倒をよくみるしっかり者でもある。

 アンは、大人たちによって理想化された純真無垢な子供なんかではない。しっかりとそこに存在している、「アン」という以外には表現しようのない、たった一人の女の子だった。

 アンが美しい女の人が好きで、憧れていた女性作家に実際に会うと地味で器量のよくない人だったのでがっかりするところなんかも、女の子の本音だなあと思って楽しい。こういう部分も、マリラにはしっかり注意されているが。

 厳しい頑固者と思っていたマリラは、とても信心深いクリスチャンだからアンにきびしいところがあったのだった。彼女にとっては空想したりはしゃぐことは慎むべきことであり、飾り立てた服装も物語やお芝居も好ましくなかったことが、三十代になってようやく理解できた(マシュウも「ダイアナ」の名前を「信心深くない」と評している場面があったり、当時のこの地方の宗教や生活の実感がすんなり伝わってくるのも、女性の作者ならではの描き方だと思う)。

 なにより感動したのは、プリンスエドワード島の風景の描かれ方だった。

 アンがグリーンゲーブルズに置いてもらうことになるまで(ちょうど今回の映画版に含まれている部分)だけでも、木や花の名前が次々に登場する。榛(はん)の木、釣浮草(レディーズ・イア・ドロップス)、柳、ロンバルディアポプラ、桜、樺(かば)、野ばら、樅(もみ)、りんご、すもも、クロッカス、ばら、楓(かえで)、ライラック、クローバー、松、しだ、りんご葵(あおい)……。植物の名前がこんなに出てくる小説はあんまりない。

 わたし自身は工業地帯に近い自然の少ない街で生まれ育ったので、子供のころはテレビや漫画の中にいくら美しい自然があったとしても、書き割りとしてしか見ることができなかった。それが五年前、木が大きくて緑が多い東京に引っ越したのを機に植物の魅力に目覚めたので、ページを開いて文字を追うとマジックのようにどんどん飛び出してくる木や花や風景の美しさは、動揺するほど魅力的なものだった。

 そのあと、アンが成長して町に住んだり、ギルバートと結婚して移る新居も、六人の子供たちに囲まれて暮らす家も、必ずどんな風景の中にあってどんな木があって花が咲いているか、具体的に細かく書かれている。一巻ごとに住む場所が変わるので、だんだん人生双六的な楽しみになっていった。

 そう、「赤毛のアン」後のアンは、母校の先生からなんと校長にまでなり、マリラが新しく引き取った双子を育て、大学に進学し、ギルバートと新婚生活を歩み、最終的には六人の子供の母となる。そのあいだに知り合ういろんな年齢・境遇の女の人たちの人物像が、個性的でおもしろくて、井戸端会議のような女性たちの会話が「アン」シリーズの魅力の源泉だと知った。「アン」は、アンと同じ年頃の少女が読んでおもしろいものだとは思われているが、親戚づきあいで愚痴(ぐち)の溜まっているおばあちゃんが読んでもきっとおもしろいと、わたしは思う。墓場ネタもちょくちょく出てくるし。

 
空と土地、木、花など風景の美しさ

 今回、見直したアニメ版の「赤毛のアン」は、そんな続編まで考えればほんの入口の入口なのだけど、でもいちばん重要な、「アン」の物語の印象と方向を決定づける部分でもある。もちろん記憶にある子供のころ見た「赤毛のアン」と同じ絵だが、その見え方は随分と変わった。

 まず、原作にとても忠実なのに驚いた。アンとおばさん方の長ゼリフのやりとりが小説版の読みどころなのだが、ぽんぽん飛び交うおしゃべりの雰囲気は損なわずに、映像で見ていても飽きないくらいの長さになっている。それから、小説では、一行一行を順に追っていくしかないので、風景が一点からじわっと広がっていく感じなのだが、絵だと、広大な空と土地、立ち並ぶ木々、満開の花、傾いていく夕陽の感じなどが、目の前にぱっと開ける。こんな風景画みたいな背景のアニメはほかに記憶がない。「背景」ではなくて、色と光で描かれた「場所」だ。

 駅から赤い道を通ってグリーンゲーブルズまでの風景と、ホワイトサンドに続く海沿いの崖の道が丁寧に描かれていて、そのことによって、島の場所の関係やそこで暮らす人々の距離感が把握できる。アンだけではない、プリンスエドワード島に暮らす人たちの物語だということが示されている。

 特に、マシュウとマリラの兄妹は存在感があった。ぽつんと離れた緑色の屋根の家に暮らす、人付き合いがいかにも苦手そうなのっそりしたマシュウと、融通が利かなそうな細長いマリラの風貌は、これ以外に想像できないほどにぴったりはまっている。だからこそ、マリラやマシュウが、口まねをしてしまうほど気になったんだろう。

 あと、壁紙。壁紙に花が描いてある! これはかなり画期的なんじゃないでしょうか。

 六歳のわたしには、村の人々や風景や壁紙までわからなかったんだなーと思った。

 わたしの経験上からだけど、子供はだいたい十歳ぐらいから大人の「人間」とつながったものになると思う。それ以前は、「赤ちゃん」と「人間」の中間の、普通の大人からは想像もできないことを思っていたり突飛な脈絡のないことをやったりして、記憶も曖昧な気がする。

 そう考えると、アンは十一歳になったばかり。ちょうど大人の人間として自分自身の道を歩み始めたところだ。

 だから自分の納得いかないことはできないと言ってしまうし、自分の恵まれていなかった境遇を楽しいことや美しいことを想像することで乗り越えるという方法も身につけている。

 
女の子たちの芯が詰まった物語

 想像すること。「空想好き」という単純な言葉では説明してほしくない。

 女の子には、自分の中に、現実とは別の物語を抱えたまま過ごしている子が結構いる。

 自分もそうだった、なんてここで言うとおこがましい気もするが、わたしの中にも十二歳ぐらいまで別の設定の女の子の生活がときどき存在していた。前にテレビで見たのだが、ある女優さんは、自分は実はフランス人でいつかフランスからほんとうのお父さんとお母さんが迎えに来て、そのとき自分はクラスメイトの前でカツラを脱ぎ捨てて金髪になるのだと信じていたらしい。

 そういうのは、空想に逃避する二重人格的なものではなくて、女の子たちが自分と周りの世界との折り合いをつけるために、そして憧れや意志を強く持って成長していくための、聖域なんだと思う。

 そういえば松坂慶子さんも大の「赤毛のアン」ファンらしく、以前NHK教育テレビの「『赤毛のアン』への旅」という番組で、プリンスエドワード島を訪れて少女のように感動していた。カメラが回ると他人を生きるという女優の仕事と、想像することを生きていく糧にしている少女の姿は、どこか通じるものがある気がする。

 「アン」という一人の少女は、不安定さを抱えながらも自分の意志で歩いていこうとする女の子たちの、芯の部分が詰まっているから、ずっと読み継がれているのかなと思う。

 ただ、今回の映画版のなかでは、アンはまだ痩せたちぐはぐな姿のままなのがとってももったいない。観客には、このあと美しく成長した姿までちゃんと見届けてほしいなあと思う。

 なにしろ原作ではその後、ギルバートとつき合うようになって周囲から美男美女の理想のカップルとして憧れられるという、夢見る女の子たち(女の子という年齢を外れたわたしも含めて)にとっては多少都合のいい、だけどやっぱり楽しい展開が待っているのだし。とは言っても、ギルバートはちょっと影が薄いというか、たくさん登場するおばちゃんたちのほうがすごく生き生きして、知り合いみたいに記憶に残っています。

(作家 しばさき・ともか)