西岡事務局長の週刊「挿絵展」 vol.20 沙漠の魔王【参】 現在、読書中です


 8月に「沙漠の魔王」の復刻版が刊行され、ようやく物語の全貌を手元に入手することができました。そして、読破しようと手に取ったのですが、読み始めてすぐに、案外これは大変な作業であることに気づかされたのでした。理由はいくつかありますが、一番の理由は、その情報量が半端でなかったことです。今回は、個人的な感想をもとに、"絵物語"と"漫画"の違いを説明してみたいと思います。

 見た目は大変似ている両者なのですが、"絵物語"の情報量は"漫画"とは比べものになりません。"絵物語"のひとコマは、"漫画"だったら、数ページ分の情報量を持つものが少なくないのです。たとえば、次のコマを見てください。
s121016a.jpg"「砂漠の魔王」第2巻13ページより"
「大きな爆音を立てゝ、飛行球が飛び立った。嵐のように木々がゆれ、木の葉が舞う。少女はしばらく見送っていたが、やがて静かに森の中へ立ち去って行く。童子はこっそりあとをつけ出した。と、少女はいきなりふり返った。ピューッと鞭が飛んできて、童子の頭上の小枝がバッサリと落ちてきた。びっくりした彼は五・六米もスッ飛んで、油断なく身構えた。」

 この絵が示しているのは、「びっくりした彼は五・六米もスッ飛んで」の瞬間の絵だけです。つまり、ストーリーを漫画のように絵の連続で見せているのではないということです。このようなコマが一ページに平均6から8コマも描かれているのですから、その情報量は半端ではないことがわかると思います。コミック本だったら一巻分のストーリーを、わずか数ページで紹介していってるといっても過言ではないです。
 また、"漫画"が読者に対し、映画のような視覚効果と効果音を擬似的に体験させ、さらにはコマ運びの緩急によって読者にスピード感を与えることができるのに対し、"絵物語"は、いわゆる"挿絵"の連続に過ぎないということです。つまり、ストーリーを理解するには、ものすごい想像力と読解力が必要なのです。前述のコマに添えられている文章を読んでも、飛行球がどんなふうに飛び上がったのか、木がどのように揺れたのか、木の葉がどのくらい舞ったのか、少女がどんな表情や姿勢で見送ったのか、童子はどこに隠れていてどんな格好であとをつけたのか、どんな場所で少女は振り返ったのか、どんな小枝が落ちたのか、童子はどんなポーズで構えたのか...これらは、何も描かれていないのです。全ては、読者の想像にゆだねられているのです。

 こうしたことから、絵物語をおもしろく読めるか否かは、全て読者の能力にゆだねられているわけであり、これは"とんでもない読み物"だといえると思います。ほとんど絵がない読み物といえば小説も同じですが、こちらはその分、情景描写や心理描写にページを割いています。ところが絵物語には、それもありません。極端な表現をすると、ところどころに差し込まれた絵をたよりに、膨大なあらすじを読み続ける感じなのです。

 述べ忘れていましたが、"沙漠の魔王"を読破するために必要な能力には、もっと大事なものがありました。それは、"記憶力"です。"沙漠の魔王"には、膨大なキャラクターとが登場し、その名前を覚えなければならないのです。かつ、ストーリーが淡々とめまぐるしいテンポで展開するため、そのキャラクターの名前と相互関係を覚えることが要求され、これは筆者のようなシニア世代にとっては本当に大変なことなのです。やはり"絵物語"とは、好奇心旺盛で、想像力と記憶力バツグンの少年少女に特化した読み物なのではないかと思ってしまいます。少年時代の宮崎駿監督が夢中になって、"沙漠の魔王"の虜になったのも、さもありなん。実際、宮崎監督は"こんな絵があったはず..."と覚えていて、それは探しても本編のどこにもないということがあったのですが、これはまさしく宮崎少年の頭の中でつくりあげていた想像の記憶だからなのでしょう。宮崎少年の頭の中ではすでにアニメーション映画のような"沙漠の魔王"が毎日上映されていたに違いありません。のちの作品にも大きな影響を与えたと本人が語っているのも必然なのかもしれませんね。